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札幌地方裁判所 昭和46年(ワ)817号 判決 1978年4月18日

原告 富家正剛 外一名

被告 国

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事  実 <省略>

理由

一1  政隆の病状経過等について

成立につき争いのない甲第一号証の一、二、第二号証、第四号証、第五号証、第八号証、第九号証、第一七号証、第一八号証、乙第一号証の一、二、第二号証、甲第三号証の一、二、第四号証の一、二、第六号証の一、二、第七号証、第八号証の一ないし四、第九号証の一ないし三、原告主張のとおりの写真であることに争いのない甲第一六号証、証人田辺達三、同小塚つゆの各証言(但し後記採らない部分を除く)、原告富家正剛、同富家喜代子の各本人尋問の結果(但し後記採らない部分を除く)とを総合すると次の事実が認められる(但し、請求原因第1項記載の各事実、同第2項中北大病院が昭和四三年五月一〇日政隆に手術を行なつたこと、はいずれも当事者間に争いのないところである。)。

(一)  政隆は昭和三三年八月一四日生れの男児、原告らの第二子である。既応症としては、五才時に眼底下垂のため、また六才時に髄膜炎のため各入院しているが、他には特段記すべきものはない。

(二)  政隆は昭和四三年四月二〇日朝、腹痛を訴えたが、軽度のため登校し、学校ではドツチボール等して興じたようである。

(三)  同日午後七時ころ、腹痛が強まり嘔吐を伴うようになつた為、その夜直ちに厚生病院に入院、翌二一日開腹手術を受けた。当時は体温摂氏三五・六度、白血球数一万三四〇〇で腹腔内に五〇〇ミリリツトルの出血があり、肝左葉には手拳大の血腫があつて、ここが出血場所と認められた。なお胃、腸、後腹膜に異常はなかつたことが報告されている。

(四)  厚生病院では政隆に肝腫瘍の破裂あるものと認めたが、之を切除できないまま、一応の止血処置をするに止め、凝血排除を目的として腹腔内にドレーン一本を挿入した。しかし、右の処置がなされたにも拘らず、政隆の腹痛は緩和せず、腹腔内の出血も続き、同月二七日ころには腹部の膨満状態がはつきりするようになつた。尚、右背部痛や鼻出血も認められている。

(五)  政隆は同月三〇日、治療のため北大病院の第二外科に転院し、同日、原告らと被告との間で本件医療契約が締結された。担当医師は、訴外田辺達三、同川上敏晃、同田村正秀、同溝田典宏、同中島進、同今井某の六名であつた。

(六)  右転院の当時、政隆は体重二五キログラム、やや栄養不良、血圧一二〇~八〇mmHg、体温摂氏三七・七度、全身は衰弱、腹部は膨満突出緊張し、強い圧痛を訴えていた。また手術後の抜糸がされておらず前記ドレーンからは血性滲出液の排出もあり、歩行は困難であつた。黄疸はなかつた。

(七)  北大病院は一般検査およびレントゲン検査等を行ない、肝腫瘍と診断、再度の開腹手術を考慮し、輸血、輸液、抗生物質投与、止血剤投与(炎症防止の目的)等を行なつて全身状態の回復に努めた。しかし、依然、出血、腹痛はあり、摂氏三八、九度の発熱が持続した。

(八)  北大病院は同年五月一〇日政隆の開腹手術を行なつた。厚生病院で行なつた手術創はその治癒が遅延し、一部感染した肉芽創からなつていた。また上腹部には凝血があり、肝門部を含む肝臓全体に腫瘤が拡がつて、その左葉部に超拳大の血管腫様の腫瘤が破裂し同所からの出血があることが確認され同病院は肝血管腫兼肝破裂と診断した。北大病院は腹腔内の一一八〇グラムの凝血を除いたが、腫瘤は拡がりすぎており全身状態が良くない為に切除を断念し、主たる出血場所である肝左葉の破裂部を大網で被いこれを縫合、血液等の排除のためドレーン三本およびシリコン管一本を挿入するに止めざるを得なかつた(なお厚生病院で挿入したドレーンはこの時に取除かれた。)。

(九)  術后、政隆の一般状態は悪く、発熱、腹部膨満が続き、著しくやせ手術創の痛みも訴えた。また出血も続いて輸血を必要とする状態であつた。

(一〇)  右に加えて右手術の三日後である五月一三日には手術創に化膿性分泌液が見られるに至り、その後その進行に伴つて、ドレーンからは化膿性の分泌液が排出するようになつた。北大病院はその処置として抗生物質(パラキンシン・シグマイシン)投与を行なうとともに、術創の縫合を二、三糸はずして排膿しやすい状態とし、傷口を消毒し、滅菌ガーゼを当てる等の処置をとつた。また膿中の細菌検査も行ない、その結果同月一八日から抗生物質をセポランとフタキシンとに変更、投与するに至つている。

(一一)  同月一七日になつて政隆の両手術創がひらき、腸管が露出するに至つた。が、その結果腹腔の容積が拡がり、腸管への圧迫も減ずることとなつたから、腸の機能自体は従前より回復することとなつた。即ち、同月二五日ころからは政隆は食欲も増し、その腹部の膨満が減じ、術創の汚染も少なくなつた。ただ出血は依然として続いており、また特に注目すべきものとして肝腫瘤が急速に著しく増大した。

(一二)  六月に入つて、政隆の病状は再び悪化するに至つた。腹部の膨満は高度となつたうえに、術創は多瘻し、そこから腸液が排出し、また腸管が一塊となつて圧排されるに至つた。そして六月四日夜には肉芽創の部の腸管から、翌五日には肛門からも術創の部の腸管からも排便が見られ、為に腹部の膨満は若干軽快に向つたけれども、発熱、腹痛は依然として持続し、腹部の膨満も依然高度であつた。ここに至つて政隆の腸管機能は麻痺が高度となつた、と言つてよい。

(一三)  同月一〇日依然腹部の状態は変らず、創部の周囲には出血があり、同月一四日には上腹部にある血腫が増大して下腹部の腸管を圧迫し、これが為にその腸管が創部から一塊となつて突出した。瘻子を形成した部の腸管も突出し、また凝血も認められた。

(一四)  翌一五日、創部より血液凝固物を大量に排出、疼痛を訴える。このころ、依然として創部の汚染は強く、腸液は流出し、創部からの排便もあつた。同月一七日、膨張した下腹部の腸は自然に穿孔して腸液を流出し、腹痛自体はやや軽くなつた。

(一五)  同月二〇日ころになると全身の衰弱が著明となつた。全身状態は悪化、体重減少、脈拍不整、緊張微弱であつた。腸液の漏出は持続し摂取したものに近い腸内容が出た。輸血補液の処置が続けられたが、同月二五日には意識不明となり、同月二八日死亡した。

以上の事実が認められ、前掲証拠中、右認定に反する部分は採用し難く、他に右認定を左右し得る証拠はない。

2  政隆の死因について

政隆が死亡した昭和四三年六月二八日政隆について病理解剖が行なわれた事実は当事者間に争いがなく、成立に争いがない乙第五号証の一ないし三、同号証の四の一および二、甲第三号証、第一一号証によると、次の事実が認められる。

解剖は北海道大学医学部病理学第一講座(執刀者池田久實、主任教授相沢幹)で行なわれ、その結果、次のような病理解剖・病理組織所見が明らかにされた。すなわち、<1>肝腫瘍(悪性肝葉腫)<2>化膿性腹膜炎<3>腹腔内出血<4>腸管癒着<5>腸瘻<6>腸管内出血がそれぞれ認められ、特に肝左葉全体に腫瘍がひろがり、同処に人頭大の腫瘤が認められ(肝重量は一九八〇グラム)、そのため肝の位置は挙上、腫瘍の表面は不整で出血性、色調は多彩である。この腫瘍は被膜を有するも、一部はこれを超えて正常部分へ浸潤傾向を見せている。全体として出血性で組織は異型であり、核分裂像も認められる。その他、全身状態については、貧血、栄養障害が高度であるが、肝臓以外の腹腔内、胸腔内臓器には特記すべき所見は認められない。

これらの解剖による所見に加え、前判示の病状経過殊に右腫瘍は末期になり急激な増殖を見せたこと等をあわせ判断すれば、政隆の死因は肝左葉部の悪性間葉腫(小児癌の一種)が増大して破裂したことによるもの、と推認するのが相当である。

原告らは術創汚染をもつて右死因と主張するので、この点を検討するに、なるほど北大病院が政隆を手術した日の三日後(五月一三日)には手術創に化膿が認められ、その後、これが続いたこと前述のとおりであつて、右化膿が政隆の病状経過に何らかの影響を与えているであろうことは間違いないと思われる。がしかし、右の化膿の故に死亡したとするのはなお根拠が不足しているし、また死因を悪性間葉腫の増大破裂とした推定を破るものとしても充分とは言えない。言い換えれば、右腫瘍の異状性は著しく高く、それだけ直接の死因と判定する確率が高いものと言えるものである。

二  以上の事実を前提として、以下被告の債務不履行の各事実につきその有無を検討する。

1  不適切な手術(請求原因第2項(二)(1) )について

前述したところから明らかであるように、北大病院が手術をした三日後より政隆の術創に化膿が認められた。しかしこの事実は右手術の際に汚染を生じた、との可能性を指摘するものとしては充分であるが、それ以上に右可能性を高度の蓋然性にまで高める証拠は何ら存しないのである。かえつて前顕甲第三号証、乙第一号証の一、二、証人田辺達三の証言等によれば北大病院に転院当時、すでに腹部が汚染し北大病院の手術は汚染創を介して行われたこと、前判示の全身状況では細菌に対する抵抗力がなく、消毒にも拘らず汚染の完治は困難であり、かつ、腹部の凝血、出血は右細菌の培地として最適な状況にあつたことが窺えるし、また本件手術は独立した消毒部内の北大病院中央手術部で行なわれ、手術器具は同手術部および中央材料部にて厳重に消毒されていることが認められる。

したがつて、原告の右の点についての主張は採用し難く、他に北大病院の政隆に対する手術が不適切であつたと認めるに足る証拠はない。

2  看護義務違反(請求原因第2項(二)(2) )について

前顕甲第一号証の一、証人小塚つゆ(当時の北大病院第二外科看護長)の証言および原告富塚正剛本人尋問の結果を総合すると、政隆は昭和四三年六月一五日従来のいわゆる大部屋から個室に移つたことが認められる(他に右認定に反する証拠はない)。ところで原告らは右以降、回診の数が減りまた若い医局員のみが診察にあたつた、とするので検討するに、まず回診の数が減つたことが事実であるとしても、そのこと故に直ちに債務不履行を構成するというものではない。問題は病人の症状に応じて適切な回診(回数および内容を含む)をしていたかどうか、にあるところ、従来より回診の数が減つたからといつて直ちに適切な回診を行なつていない、ということにはならないからである。ところで前顕乙第一、三、四号証の各一、二、証人田辺達三の証言、右小塚証言によると、当時の入院患者は六〇名であり、医師の回診は受持医が日に一回ないし二回、また教授および助教授回診が週に各一回と決められ個室に移つた後も担当医のほか、教授、助教授の政隆に対する診察は行われていたことが認められ、また原告富家喜代子本人尋問の結果によつても六月一五日以後も毎日数回は医師の回診があり、また看護婦も様子を見に来たこと自体は認めているのであつて、以上からすれば政隆について特に回診を少なくした、といつた事実は認められない、と言うべきである。そして右事実のほかには、回診の回数や内容が不適切であつたとする事情は見当らない。原告らが回診の回数が減つたと感じたのは、従来政隆の居たのが大部屋であつたので自然医師、看護婦らの出入りが多かつたのに対し、個室に移つたために大部屋に比較してその出入りが少なくなつたと感じたことによるのではないかと思われる(前顕乙第四号証の一、二によると、個室に移つた後も看護婦は一日十数回、危篤状態の頃は二十数回看護のため出入りしていることを窺うことができる)。

次に看護を怠つたとの原告ら主張についてみるに、その主張する具体的な根拠は、北大病院が原告らをして政隆の腸液、便の漏出に対する処置(紙オムツを使用させたこと)に求める様である。証人小塚つゆの証言、原告富家正剛本人尋問の結果によると、原告らが看護婦らとともに右処置を採つていたとの事実を認めることが出来る(他に右認定に反する証拠はない。)。しかし他方証人小塚つゆは病院では、医師の治療後バラガーゼ等のガーゼをあて、更にガーゼ、油紙等を相当数重ねたうえ腹帯をする処置をとつていたが、末期になり汚れがひどく寝巻が汚れる状況になつた為、婦長から政隆の母に相談し、了承を得て、右相当数のガーゼ、油紙を重ねたうえに紙オムツ腹帯を使用したと供述し、同原告本人も「何回もとりかえるので、私らの方も看護婦さんに頼みづらかつたし」云々と供述しているのであつて、右各証拠によると、右処置を手伝うことは原告らも了承した上のことであつたと認められ、さすれば右の処置をさせたことを根拠に債務不履行を主張するのは、その理由に欠け、採るを得ないと言わざるを得ない。

3  説明義務違反(請求原因第2項(二)(3) )について

(一)  本件医療契約は準委任契約に類似する無名契約の一と解すべく、従つて特別の事情のないかぎりは民法第六四五条に準じた報告義務を負うものと解される。とはいえ、医療契約に基づく治療行為といつても種々の方法があつてその選択は当時の医療水準を逸脱しないかぎりは原則として医師の自由裁量に委ねられているのと同様、報告義務といつてもその報告内容をどのように解するかは問題である。言い換えると同条に委任事務処理の状況と云いまた其顛末と云う概念を医療契約の場面に移した場合に如何なる具体的内容を含むか、ということである。検討するに、医師は患者又はその保護者に対して療養方法その他保健の向上に必要な事項につき指導しなければならないこと(医師法第二三条)は勿論で、その指導に必要な範囲の事項につき説明を要することは当然であるが、この他にも現在の症状とその原因および医師が患者やその保護者らの予期し得ない結果を生ずる可能性がある処置を選択する場合におけるその処置内容につき、それぞれその概要説明を行なう義務があるものと解される(不明であれば、その旨の説明で足りる)。それは、患者やその保護者らが少なくとも右の範囲で説明を受けることを期待し望んでいるのが通例であることに加え、医師も多くかかる事情は知悉しているであろうこと、医療が医師と患者およびその保護者らとの信頼、協同関係の上に成り立つていることを考えれば、これを支えるものとして最低限右に述べた範囲の説明を行なう義務があり、その意味で右説明は医療契約の内容を為すものと言えるからである。しかし、右の如く解するからといつて、如何なる場合であれ右の範囲の説明を欠いてはならない、とするのではない。右範囲の事項説明は最低限必要なものとはいえ、その説明を行なうことが医療効果に悪影響を及ぼし、かえつて医療契約の本旨に反する結果となる場合もあるからであつて、かかる場合には説明を省略し、あるいは悪影響を与えない範囲で虚偽の説明を行なうことも、場合によつては許されるからである。但し、右の例は債務の不履行はあるけれどもその違法性に欠ける場合なのであるから、右の範囲での説明を省略しあるいは虚偽を述べることが許されるとする所以は医師の側で主張立証すべきものと解するのが相当である。なお附言するに、右範囲に属しない事項については全く説明の要なし、とするものではなく、これら事項も患者やその保護者らに説明されることによつて医療効果が上がる場合も多いであろうと考える。しかし、これを行なうか否か、行なうとしてその時期、内容、相手方等の選択はまさに医療行為の一環として医師の自由裁量に属するところというべく、従つてかかる説明が為されないからといつて債務不履行にあたると言うのは当たらないのである。

(二)  右に見たところを本件にあてはめると、次のとおりである。

前顕甲第一号証の一、二、第九号証、証人田辺達三の証言を総合すると、北大病院は原告らに対し少なくとも以下の説明を行なつていたと認められる。即ち昭和四三年五月一日ころ肝臓に腫瘍があつてそこから出血があり、その手術を考えているが非常に危険を伴うものであることおよび癌の疑いがあること、同月二日手術前の調査を行なうこと、同月四日には来週には開腹手術を予定していること、同月六日肝臓検査を行なうこと、同月一〇日手術の結果肝臓に血管腫があることおよび腹腔内に血液がたまつていたのでこれを取除いたこと、同月一七日化膿は厚生病院の手術創が汚染していることが原因であり、また全身状態、栄養状態の悪く抵抗力がないことにもよること、翌六月一日政隆の腸の機能が麻痺したこと、同月三日肝臓からの出血は相変らず続いていること、同月一二日ころ、血管腫は切除できず、そのため状態が悪化していることを黒板を使つて説明したこと、等がそれであり、また原告らの依頼で前記田辺達三は昭和四三年五月および八月の二回にわたり、政隆の病名、症状その他の概略を記した書面を作成交付し、その際説明も行なつていること、原告らは同年六月中ころには政隆の肝腫瘤が急速に増大してきている事実を知るに至つていたこと、および原告富家正剛は、政隆の解剖に立会い、血管腫が異常に大きく肝臓癌の一種であるとの説明を受けている等の各事実も認められる。各原告の本人尋問の結果中、右認定に反する部分は前顕甲第一号証の一にてらし採るを得ず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

そしてこれらの事実によれば、北大病院は前記最低限度の説明はこれを行なつていたものと認められる。尚原告らは適切な説明がなかつたというのみで、その具体的な内容については明らかな主張をしない。わずかに「これで生きる望みが出て来た」との虚偽説明を行なつたというのが唯一の具体的な主張である。しかし仮にかかる説明があつたにせよ、腸管が自然穿孔すれば腸管機能の回復をもたらし、従つて全身状態の回復にもつながるとの説明は誤まりではないし、また政隆がかかる状態にあつたことは前述のとおりである。これをことさら虚偽説明である旨主張するのは当を得ないものである。

4  以上被告には、原告らが指摘する債務不履行の事実を認めることはできない。

三  次に原告らの不法行為請求について検討する。

1  学用患者制度について

(一)  成立に争いのない甲第二二号証、証人田辺達三、同小塚つゆの証言によれば、国立大学医学部には附属する教育研究施設として附属病院が設置され、一般患者の診察を行なうとともに医学の教育研究を担つていること、為に附属病院はその患者の病状等が学生らの教育、研究に必要と思われる場合において当該患者またはその保護者の同意もしくは自発的協力の申出を得、臨床講義や臨床実習に協力を得る反面、診察等に要する経費の全部または一部につき国が負担する、というのが学用患者の制度趣旨であることが認められる。

(二)  臨床講義や臨床実習での協力を求める以上、学用患者認定には当該患者(場合によつてはその保護者)の承諾が不可欠であり、また反対に承諾を得たからといつて学用患者の尊厳を傷つけるが如き協力を求めることは許されず、また求めるべきものでないことは当然である。

(三)  しかして右の承諾を得かつ求める協力内容が個人の尊厳を傷つけないものであれば、学用患者の制度は右に見てきたとおり合理的な存在理由を持つものと認められる。従つて学用患者認定自体は右要件の具備する限りにおいて違法性を有するものではないと解するのを相当とする。

2  原告らの主張について

原告らの主張も、如何なる要件下であれ学用患者制度は許されないとする訳ではあるまい。その主張するところは、要するに一は学用患者認定を受けるに際し承諾をしたが、これは強迫により為したものであつて自由な意思に基づかない、という点であり、その二は学用患者であつたことを利用して心理的に圧迫し、政隆を解剖した、との点であつて、この二点に集約が可能である。

(一)  まず前者の主張についてみるに、政隆が北大病院学用患者の認定を受けるに際し、父母である原告らが承諾した事実は当事者間に争いがない。問題は、北大病院が「学用患者となれば病院代は無料となるが拒否するのであれば病院代を支払え。われわれの厚意を無にする気か。」「治療代全額を支払うことが出来るか」とする旨の発言をし、原告らを強迫したか否かである。前顕各証によると、原告らは当時病院代の支払に困難を感じており治療代金について北大病院に相談したこと、北大病院は原告らに対し学用患者の認定を受ければ治療費は無料となる旨説明を行なつたことは、いずれもこれを認めるに足るが、しかしそれ以上に強迫に及ぶものであつたとする証拠はない。原告ら本人尋問の各結果もこれを証するに足りないものである。

(二)  次に後者の点について見るに、前顕各証によると、原告富家正剛は右承諾を為すに際し、政隆の解剖を承諾する一項を見つけ訴外田辺達三に対し問合せ、同人から原告らの承諾なしに解剖しないとの約束を得ていること、政隆死亡後訴外川上敏晃から肝臓だけでよいから解剖させて欲しい旨の丁重な申入れがあり、原告らと親族が相談した結果、死因も明らかになるかも知れないということで、解剖に立会うことを条件に改めて解剖を承諾していることが認められる(他に反する証拠はない)。さすれば政隆を解剖するについて原告らがした承諾は自由な意思に基づくものであつたと認むべく、この点原告富家正剛自身も北大病院は無理に解剖させてくれとは言いませんでした、とする旨の供述をしていることからも間違いないところと言うべきである。

以上によれば、原告らの右各承諾はいずれも自由な意思に基づくものと認むべく、原告ら主張の不法行為は成立しないことに帰する。

四  結論<省略>

(裁判官 丹宗朝子 前川豪志 上原裕之)

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